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| 養老 |
意識が人工、無意識が自然
まず、最初に申し上げたいのは、これまでのお話の中で「人間と自然の共生」という言葉が出てまいりましたが私はその言葉は使わないんです。私流の定義を申し上げますと、“意識”ということが人工であって、“無意識”に当たるものが自然と考えております。
なぜそうなったかと言いますと、私は解剖学を長年やっておりまして、死んだ方を扱っております。死んだ人が何だといったら、これは自然と呼ぶしかないんです。生きている人との一番大きな違いは、そこには意識が全くないということです。別の言い方をしますと、我々は身体(しんたい)という自然をかかえているのでありまして、「人と自然との共生」というのは、実は、意識と体の共生、つまり、心と体という問題であろうと思っています。人間の社会の中だけでいえば、先ほど、岩槻先生は南北問題とおっしゃいましたが、要するに、都会と田舎の関係と言ってもいい。そして、もっとさらに外まで持っていけば、熱帯雨林対都市という、いわゆる自然対人間社会あるいは人間というとらえ方にもなる。だけれども、解剖をやっておりますと、身体そのものの実在性を非常に強く感じます。それを人間の中から当然取り去ることはできないわけで、その意味でも、人間対自然という図式よりは、意識対無意識というか、心対体と言ったほうがわかりいいのではないかと、そう思っています。
解剖学はいらない?
その次に、統合的理解という言葉が出てきました。統合的理解というのも非常に難しくて、私が解剖をやっておりまして一番困ったのは、解剖学を学生に説明することです。解剖学を学生に説明するときに、「これは本当に学問だろうか」という疑いがいつもあるわけです。私自身が解剖学をやっていて悩んだのは、もし学問というものが本当に経験的・実証的であるならば、解剖学はいらないんですね。実証ないし経験そのものが重要であるなら、解剖学は不要だという考え、人間の体の問題を、本当に具体的に扱いたかったら、その都度、人体を持ってきて解剖すればいいんです。人間の体そのものをそこに持ち出せば、まさに経験であり、実証でありますから、それ以上学は要らないじゃないかということを、実は、解剖学をやりながら考えておりました。それで、ずっと解剖をやっておりまして、最近、いろいろなことを言いますけれども、基本的にそれはそういった解剖から考えたことであります。意識の問題も典型的にそうで、なぜならば、さっき申し上げましたように、亡くなった人は生きているときとそっくりですが、一番はっきりしているのは意識が無いんです。しかしそれは、非常にはっきりと私には人間に見えます。今度は、その体というものを統合的に理解する。つまり、私は、体は自然だと申し上げましたから、それを統合的に理解するというのはどういうことだろうと考えます。さらに、それは人間というものから意識が抜けてしまっていますから、そういった自然としての人間を把握するのはまさに解剖学だと思うんですが、これが統合的かというと、実はとんでもなくて、どんどんどんどん細かくなって、どんどんどんどん統合から離れていっている気がします。そして、どこに問題があるかというと、これも、人間と自然の対立という言葉が問題だったように、統合的な理解ということに、私はまた問題があるような気がします。
情報とシステム
岩槻先生は、先ほど、分析的・還元的な理解とおっしゃった。分析的・還元的理解というのは、私の言葉で言い換えますと、「情報化」ということに尽きます。情報に変えると。つまり、生物を徹底的に情報化していきますと、最後に遺伝情報に変わります。DNAの塩基配列に変わってしまいます。生物学の世界にドーキンスの『利己的遺伝子』がありまして、皆さん方は、遺伝子が進化の過程で利用している乗り物(Vehicle)であるという表現があります。なぜかというと、進化の過程でずっと生き残ってきたのは遺伝子ですから、比喩として言えば、皆さん方は、長い時間遺伝子が生き残っていくための、その時その時その時の乗り物であるという見方になってきます。
ところが、そこでものの見事にドーキンスが忘れていることが一つあります。彼は、進化の過程でずっと遺伝子が生き残ったと考えるわけですが、忘れているのは、19世紀に、ウイルヒョウという病理学者が一言言ったこと、「すべての細胞は細胞から」ということです。どういう意味かというと、皆さんの細胞は全部親の細胞です。その親の細胞には、また親の細胞があって、それにはまた親のと、ずっとさかのぼっていきますと、細胞は遺伝子と同じように一度も滅びたことがないということがわかります。すなわち、進化の過程で滅びなかったのは遺伝子だけではなく、実は、細胞が滅びていません。この細胞に代表するものを、私は「システム」と呼んでおります。細胞に代表されるような複雑な要素が上手に動いて、いつも似たような形をして何かやっている。つまり、生きているというものを、私は一応「システム」と呼ぶ。
それに対して、遺伝子を何と呼ぶかというと「情報」と呼びます。そうすると、近代科学というものは、徹底的に生き物というシステムを情報に変えてきた仕事です。それは医学をご覧になればよく分かります。皆さん方が病院にお出かけになれば、お医者さんがすることは、皆さん方の体を検査することです。順繰りの検査を全部終わらせて、医者のところに戻ってきますと、「検査の結果が1週間たったら出るから、また来てください」と。以上、終わりでございます。検査の結果とは、本日の皆さんの体に関する情報、あるいは情報を生み出すためのデータです。それを近代科学、近代的な医学と言っています。皆さん方がそういう検査をやっている過程で面倒をみてくれるのは、看護婦さんです。私は、自然の統合的理解というふうに言うときにすぐ感じるのは、医者と看護婦の違いです。医者は検査の結果を見て情報を分析して判断する人ですが、皆さん方そのものを見る人は、近代の病院でいえば看護婦さん。最近では、その看護婦さんが勉強をするようになって、論文を書くようになりましたから、基本的に皆さん方の面倒をみてくれるのは付き添いさんだろうと、私は思っております。 もう一つ申し上げたいのは、現代の研究者、偉い先生方は、全員が論文を書く人であるということです。医者にせよ、生物学者にせよ、実際に扱っているものは生き物ですが、それを必ず論文にするんです。では論文を生きているのかというと、どこも生きておりません。論文を100万集めても細胞1個できないし、植物1本、それこそ雑草1本できません。私が一番申し上げたいのは、そのことです。ここ150年間、19世紀半ば以降の科学は、今、私が申し上げたシステムをすべて情報に書き換えるという作業をしてきた。そういう世界を作ってきたということです。
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| 岩槻 |
どうもありがとうございます。
大変示唆に富んだお話でした。あとお二人の先生のお話を伺ってから議論に入らせていただきたいと思います。
村上先生、次、お願いします。 |
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