KOSMOSフォーラム
 
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フォーラムINDEX(第9回〜第10回)
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第1回KOSMOSフォーラム 2003
 
フォーラム議事録
 
村上 倫理の視点から
 私の今日のポイントは、一点に絞ります。それは、倫理という問題です。
 もともと倫理的配慮というのは、自分たちのコミュニティー、あるいは近隣のコミュニティーの間の関係ぐらいのところが関の山であったんだろうと想像できます。だから、いわば仲間に対する責任と行動の責任といったような問題が、倫理の規範あるいは基礎にあったと考えるとすれば、それが近代に向かって少しずつ開かれていく、その対象が広がっていくという傾向が見られるように思います。
 例えば、キリスト教が支配するようになったヨーロッパは、「人間」という非常に抽象的で普遍的な概念を、他の世界から区別するということ、人間だけをほかの自然から切り離すということを、ほかの文化圏よりもかなりはっきりとやって、その結果として、人類普遍という抽象的な概念は、とりあえずは自分たちのものにしたと思われます。けれども、倫理という点で考えれば、なかなかそれが人類普遍の倫理に広がらなかった。例えば、1549年にサビエルたちが日本にやって来ます。そこで、日本の状況に関して、さまざまな観察したデータをローマに書き送るという仕事をする人たちがいまして、その人たちが日本について、「キリスト教が支配していない社会で、これほど高潔な道徳倫理観が行き渡っている社会に出会ったのは、極めて大きな驚きである」ということを言っているわけです。それは、キリスト教の世界の中にしか、いわば倫理はないと彼らが思いこんでいた、という非常に明確な証拠になりました。これは何も16世紀だけではなくて、20世紀でさえそうです。新渡戸稲造が『武士道』という本を英語で書きますが、新渡戸は、「日本では宗教的な背景がないのに、倫理がまかり通っている。とにかく倫理観があるというのは一体あり得るのか」という問に対して、自分で答えを出そうと思ってこの本を書いたのです。キリスト的世界観の中にそういう発想が、まず、ある。つまり、自分たちの世界の中にしか、基本的に倫理は存在しないという思い込みがあった。しかし、キリスト教国であるアメリカでは、例えば、黒人の基本的な権利が差別されていたのはご承知の通りで、人類普遍という抽象的な概念を持っていたとしても、それが本当の意味で、人類普遍の倫理というところまで広がっていくという契機は、まだ20世紀までは存在しなかったと思われます。
時間的な倫理・空間的な倫理
 ところが、20世紀に入って事態は二つの意味で変わってきたと思うんです。一つは、時間的な倫理の拡大。もう一つは、空間的な倫理の拡大です。まず、時間的のほうから申し上げますと、公害問題というのは、今、公害で悩んだり亡くなったりする人たちが現実にいる問題であるわけです。それに対して、一般的に言われている環境問題は、今、私たちがやっていることが、数世代後の、つまり時間的にははるかに先の世代に対して、影響を与えうるかということが、倫理上の問題、責任として問われるという事態が起こっているということです。その分野の人たちは「世代間倫理」という言葉でそれを呼ぶようですが、将来、この地球に生きるであろう人たちに対する、現在の私たちの行動の責任をどう取るかということが倫理上の非常に大きな問題の一つとして浮かび上がってきた。それを知らしめたのが環境問題だということができると思います。
 同じような観点で考えますと、先ほどの養老先生の話の中でも、死者ということが出ましたが、人間は、過去になってしまった人でも、葬礼という形である種の倫理的な扱いをするというふうにやってきているわけです。つまり、人間は過去に対してはある程度の倫理的配慮をしてきました。ところが、今言ったように、将来に対して倫理的配慮をするということを、別の例で申し上げますと、脳死者をどう扱うかという問題も似たような問題ですね。死者のうちに入れるのか、入れないのか。呼吸もしていて、体温があるような“脳死体”から、臓器を取り出していいのかどうかという問題も、言ってみれば、生が過去になりつつある人に対する倫理的判断ということができるわけです。また、精子とか卵子とか、あるいは胚、受精卵、胎児といったようなものに対して、私たちはどういう倫理的判断を施すかということも、やや未来系の倫理ということができると思います。つまり、時間的に、現在私たちが、今一緒に生きている人たちだけでは、倫理的判断が足りない、不足するという、そういう総合的な、いわば時間的に過去から未来に向かって、配慮しなければならない状況が、一つ生まれてきていると言えるのではないかと思います。
 それに対して、もう一つ、空間的に倫理的対象を広げなければならないという事態が起こっている。それは何かと言いますと、現代では欧米系の場合に、実験動物に対する配慮というようなことが、生物学の実験の中に付け加えられてきております。実験動物を人道的に扱うということはどういうことであるのか。あるいは、クジラ、イルカ問題というような非常に現実の、私たちの今の事態に関わりのあるものから、さらに生態系維持というようなときに、ここでは態度が二つに分かれるわけです。一つは、人類の利益を考えた上で、生態系の保存が必要になる。従って、生態系の保存ということは、人間が自然を搾取し続けるのではいけないのであって、自然が人間にとって利益がある形で持続(sustain)されなければならない。そのサステナビリティを実現するために、私たちは、他の種に対する倫理的配慮というものを考えなければならないのではないのかという言い方です。もう一つは、他の種そのものが、それ自体として生存の価値があるというものです。炭疽(たんそ)菌は生存の価値があるのか、HIVのウィルスは生存の価値はあるのか、と言い出しますと、非常に厄介な問題になるわけですが、それぞれ自然の中に存在している種それ自体として生存の価値があるということに対する倫理的配慮を、人間はしなければならないのではないかという問題意識が、現在、広がりつつある。従って、地球という一つの大きなシステム全体についても、人間はそれなりの配慮をしなければならない。それも、倫理的な配慮を施さなければならない。そういう議論が、ここ20年、30年程、これも欧米から出てきたものだというふうに考えられますけれども、かなり顕著に現れているということを少し指摘しておきたいと思います。
人間とブタ
 では、東洋的なアニミズムはそういう問題にどういうふうに絡むんだろうか。その問題に少し触れさせていただきます。これは日本で、生命倫理の分野で活躍しておられるダリル メイサーさんという方がおられますが、この方のデータに基づいての話です。『ニュー・サイエンティスト』という雑誌が、遺伝子変換をして、ブタに人間の心臓を作らせる実験を繰り返してきた報告があって、それに対して、各国の若い人たちがどういう反応を示したかということをメイサーさんがデータをとっておられるんですけれども、これはなかなか面白い。そもそもブタに人間の心臓を作らせるということは、何を意味しているかというと、臓器移植の時にそれを使う。脳死を待って他人の心臓をあてにするよりはましだろうということで、ブタに人間の心臓を作らせて、必要とするレシピアントが使うということに対してなんですが、ヨーロッパ系のニュージランド、スペイン、ドイツ、フィンランド、イギリスと比べますと、ブタに積極的に配慮すべきだと答えた人が最も少ないのは日本。人間が大事であるから、ブタを使ってもいいから、人間が大事だ。人間に最も積極的にプラスの答えをした人が、6カ国の中では、日本が最も多いわけです。イギリスですと、ブタにかなり強い配慮をすべきだというのが30%近くあるわけですが、日本ではその半分以下です。一方、人間にそんなに強い配慮をすべきでないというのが、イギリスでは40%を占めるわけですが、日本では22%で、これまた半分ということになります。つまり、山川草木悉皆成仏というような思想を持っているはずの日本で、最も人間が一番大事だという答えが若い人たちにシェアされていて、動物は人間にとってはどうでもよろしいという感覚が広がっているというデータを私たちは目の前にしているということを付け加えて、私の最初の問題提起にさせていただきます。
   
岩槻  どうもありがとうございました。
 最初のキーワードを“倫理”という概念の中で、非常にきっちりと整理をしてお話をしていただきました。
 引き続いて、小山先生に最初のお話をお願いしたいと思います。
 
 
 
 
 
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