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| 小山 |
先住民の言い分
私は考古学と人類学をやってきました。だからオーストラリア・アボリジニやカナダのハイダのおじさんやおばさんたちといつも話し合っています。そういう人たちは、物事を常に生活に即して考えている、つまり村上さんが指摘したように、“私に配慮”する人たちなのです。
最近日本でも、自然を守ろうという動きが強くなってきました。それはヨーロッパやアメリカと軌を一にしています。いわゆる先進国ですね。特に厳しいのは、イギリスだとかドイツです。ところが行ってみますと、彼らは徹底的に自然を荒らした後で、「あー、これはしまった、なんとかしなければ」と考えたのではないかという気がいたします。イギリスでは、山には木が全くなくて草地になっていて、逆に街に木がたくさんあるという、ふつうとは全く逆の景観をみます。
先住民の人たちに言い分を聞いてみましょう。いま、私たちは「熱帯林を切るな」という。彼らは「じゃ、おれたちをどうしてくれるんだ」と。「おまえたちは、車に乗って、いい家に住んで、うまいものを食って、楽しんでいるのに、おれらはまだこんな生活だ。車も欲しい」、「森はまだたくさんある。これを売ったら、いろいろなことができる。私たちはずっとここを守ってきた。祖先の遺産の一部を使ってるだけだ」というのです。それに対して、「いや、自然は大事だから、手をつけないでくれ」というのは、少しムシがよすぎるような気がするのです。
自然を壊すもの
このシンポジウムのテーマは「人と自然の共存」です。そこでまず自然を壊すものにどういうものがあるかを考えてみましょう。2万年という時間をとってみましょう。自然を一番大きく変える原因の一つは、気候変化です。2万年前には日本は氷河時代でした。すると一面の氷の世界から、現在の森に変わっていったという時間的な流れのなかで、自然は刻々と変わってきたはずです。
つぎに災害があります。大風、地滑り(白神山地はすごい地滑りがいつもあって、人間が荒らさなくても、森を攪乱しています)、洪水(これは六甲山など、人間が木を切り過ぎて起こることもあります)と、それから火山(6千年前頃、縄文時代の前期に、九州の姶良火山の大爆発のため、西日本の植生がほぼやられたと考えられています)。
そして動物。シカでもイノシシでも、ネズミでも、その大発生(イノシシ、シカあたりは山村では大変な問題で、今やもう、守るんじゃなくてどうやってコントロールするかというところまできていると言われています)。
動物のなかで一番悪いのが人間です。しかし、人間がいなくて、自然自体を考えたり、守ったりするのにどんな意味があるのでしょうか。森というものを中心に考えると、私たちは自然にできあがった極相(クライマックス)が一番いいと考えがちです。しかし、カナダでの経験ですが、そんな森はコケがはびこり、びっしりクモの巣がはり、下はジュクジュク。彼らは「ここにはクマやシカでも入らないんだ」と言います。そういう森がずっと広がっていても、どうにも仕方がない。自然のままでは使えないのです。
山火事の諸問題
ところで今、テレビでカリフォルニアの山火事が報道されています。森と火の問題は、20年ほど前オーストラリアに行ったとき、アボリジニが林の中でどんどん火を付けていくので驚き、興味を持つようになりました。北海岸部のアーネムランドでは、乾期(7月から10月まで)になると、巨大な煙が方々から立って、もう空は鈍い紫色。私たちは「木1本、首一つ」という伝統があって、森に火をつけるなんてとんでもない、と信じています。オーストラリアの白人たちもそう思っていたらしいんです、彼らも森林地帯から来たのですから。だから植民地政府は火をつけることを禁止した。そうしたら、今でもしばしばシドニーやメルボルンなどの都市近郊で大火災が起こる。ユーカリの林は落ち葉がたっぷり油を含んでいるので、長くためると発火したとき、ドーンと燃え上がって手のつけようがなくなるんです。これに対しアボリジニは、毎年少しずつ火をつけ、大火事となるのを防いでいたのです。そこには何万年という彼らの生活の知恵が潜んでいたことがわかったのです。
カリフォルニアの場合は、オーストラリアと比べると100年以上、文化が失われるのが早かったために、もし森に火をつける習慣があったとしてもわからなくなったんだと思うのです。彼らも何らかのコントロールをしていたはずです。というのは、湖底の堆積層をみると、ずっーと縞状に炭素粒が入っている。30年ぐらい前にそれを見たときは、「ああそうか、ここは乾燥しているので、燃えやすいのか」と思ったのですが、あの層序の規則正しさは、規則的に火をつけてコントロールしたものかもしれない、もう一度見直してみたいと思うようになりました。どうも民族誌を見直してみると、そういうところが所々出てくるのです。
それから熱帯雨林の「破壊」「焼き畑」の問題。テレビの広告にもありましたね。
昨年、チャールズ・ダーウィン研究所に、花博がコスモス賞を渡し、そのあとミッションでエクアドルに行きました。その旅で驚いたのは、低地の森のすごさです。谷なんか、草とかツタが絡まって、何にも見えない。この猛烈な緑の繁殖力に対しては、人間は火をつかうしかないだろうと思いました。ブルドーザーでやればいいでしょうが、石器や鉄鎌で倒すのは大変です。そこで彼らは、焼畑としてシステマチックにそれをやっていたのです。こういうことを考えると、人間というのは自然をただただ守ってきたんじゃなくて、コントロールしてきたんだと思います。
人あってこその自然
日本は森の多い国だと言われます。私は縄文時代をやっているんですが、縄文人は森の恵みにすがって生きてきたと考えられていた。ところが最近の調べでは、この時代には、もう里山ができていたことがわかってきました。例えばあの大きな集落遺跡、三内丸山は、もとはうっそうたるブナの林だった。ところが人が入ってあの集落をつくると、急にブナが減って、二次林的なナラとかクリに入れ替わる。これは花粉分析の結果、わかってきたことです。縄文人はすでに森のコントロールをやっていたわけです。わたしは、縄文人も火をつかっていたのだと考えています。
すると今、私たちが「自然を守れ」「森を守れ」という問題は、森の極相(クライマックス)は、自然のままでてきた極相がベストであると信じ込んでいるからではないでしょうか。しかし、そうではなく日本人は森に手を入れて、里山という使いやすい林をつくってきたのです。自然極相というのは植物の砂漠みたいなもので、使いにくいものです。そこで人間が火を入れたり斧を入れたりしながら里山をつくり、住みやすくしたのだと思うのです。岩槻さんは「里山の自然を守れというすごいジョーク」とおっしゃっているのですが、実はわたしたちにとってはそれがもっとも「理想的な自然」なのではないでしょうか。そうでないと、自然を守るためには人間がいない方がいいということになる。私たちは、やはり人間を中心に自然を見ていくべきだ、人類の歴史をたどってきた一学徒として、そう考えております。 |
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| 岩槻 |
どうもありがとうございました。あと1時間ほど話し合いをしていただくのですが、最初に「人と自然」ということについて3人の先生方の話をもう少し詰めていただいて、その後小山先生がおっしゃった「自然を人のために守るとは何か」というようなところに触れていただき、後半で「統合的な物の見方というのはどういうものか」という話題に進めたいと思います。 |
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