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| 岩槻 |
里山の自然とは
それで最初の「人と自然」ですけれども、自然破壊という言葉を考えてみますと、日本列島でいいますと、決定的な自然破壊が最初に行われたのは、実は新石器時代の始まった時代です。それまで狩猟採集の生活をしていた人たちが鉄器を使うようになって、農耕牧畜に軸足を動かすようになって、うっそうと茂っていた森の一部、谷地・谷沿いなどを中心に低地をざっと20%伐採して農地を造って稲作を始め、そのバックヤードに小山先生が今おっしゃった里山というようなものをつくって、それで新石器時代以後の生活を始めたわけです。これはまさに自然破壊をやってきたということになりますね。だけど、どなたも新石器時代をつくったご先祖様たちが自然破壊の創始者である、とはおっしゃらないですね。なぜそれが自然破壊でなくて、最近の自然に対する営為が自然破壊なのか。
さらに言いますと、里山というのは、日本の場合には、農地がそれほど豊かではない。例えばヨーロッパやアメリカが、一面に農地を展開させて豊かな農産物を獲得したのに比べますと、貧弱な農作物しか得られなかったのです。だから背後の里山を上手に使って、農耕の生活だけではなくて、里山でも採集をやって、それで補うような暮らしを成り立たせていました。里山というのは、今おっしゃたように、まさに人為・人工が入り込んだ形で、農地と合わせて非常に上手なリサイクルシステムを作ってきていたという形なのです。ということは、私どものご先祖様たちは、「人と自然の共生」という言葉がもし成り立つとすれば、人と自然を共生させながら、上手にリサイクルシステムの中で生きてきていたといえます。その結果実は、江戸末期から明治の初めには、里山は非常に貧弱な山になっていたんですね。それが最近、里山の自然を守れと、今おっしゃったようないい方をするようになったのは、里山が豊かな緑を回復してきているということなんです。これは里山が放置されて、例えば関東でいいますと雑木林が無くなってしまって、だんだんと多様な緑が回復して自然のような姿になってきているということなんです。そういうことも基礎において考える必要があります。
生物多様性とは
その多様な緑、言い換えれば生物多様性となりますが、1992年に結ばれた生物多様性条約の基本は、生物多様性の持続的利用ということです。これはどういうことかというのを、WHO事務局長のブルントラントさんが、『Our
Common Future』というレポートをおまとめになったときに使われた言い方は、『われわれが今、生物の多様性を利用しているのと同じように、孫子の世代も生物の多様性を利用できるような状態に維持することが、そのサステナブルユースである』という定義です。まさに、先ほど村上先生が指摘された世代間倫理というのが、強く訴えられています。
また、里山というのは先ほども言いましたように、人為・人工の産物ですから、広辞苑で定義されたとおりの自然という言葉を使いますと、「里山の自然を守れ」というのは、国語の答としては落第の答になってしまうんですね。それにもかかわらず我々はすんなりと、そういう言葉を受け入れている側面があるわけです。そういうことをふまえて、3人の先生方にもう一度、養老先生から順番に人と自然との関わりについてコメントをお願いできればと思います。
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| 養老 |
別な言い方で先ほど申し上げたことを言い直しますと、自然なほうとか何とか言っているけれども、結局は自分の問題だと私は申し上げているわけです。それを多くの方が多分ピントはこないと思います。なぜなら都会に住んで都会的な生活をしていて、自然とは関係ないとか思っていると思うんです。だけど先ほど、それは意識と身体の問題でしょうと申し上げた。
意識中心の社会
私自身が自分の大学で感じたことで申し上げますと、私は北里大学の3階で講義をしています。今年の春学校に行ったら3階までエレベーターができていた。乗ろうと思って上を見たら、身障者専用と書いてあったんです。仕方がないから乗らないで、講義を済まして事務に行って、「身障者専用って書いてあるけど、僕乗っていいの。」と聞いたら、「先生、幾つ」「65だよ」「65歳以上は身体障害者と同じ扱いです」と言われて、乗っていいんだというのが分かったんですけど。「どうしてエレベーター、作ったの」と聞いたら「そりゃあ、先生バリアフリーの世の中ですから」と言ったんですよ。だから僕が「ちょっと待ってよ。バリアフリーというんなら入学試験、何とかしてちょうだい」「手足の具合が悪いと学校の費用でエレベーターまで作ってくれるけど、頭の具合が悪いと門前払いを食わせるじゃないか」と言ったんです。それはそのことなんですよ。
つまり、我々の社会そのものが意識中心に組み立てられているということを、私は言っているわけで。非常に極端に聞こえるかもしれませんが、今のような無考えというか、変な偏見というか差別というかですね、それは基本的にいわゆる自然破壊といわれたものとそのままつながっていると、私は思っているんです。
ロケットよりも大切なもの
もう一つ申し上げたいのは、先ほど、我々が科学技術の最先端と言っているものが何かということを申し上げたのですが、それをよく象徴していたのが、この間の中国の有人ロケットだと思うんですね。私が、アメリカの月ロケットが飛んだときに書いたことなんですけど、「あんなデッカイものがあんな音を立てて空飛んで、月に落ちりゃ誰だってびっくりする。しかし飛ぶだけならハエでもカでも飛ぶ。悔しかったら、ハエかカを作ってみろ」と書いたんです。それは負け惜しみではないんで、私は本当にそう思っているんです。つまりハエとかカを作ろうと思ったらとても作れない。それなのに、ロケットが飛んだと言って、進歩だと言っているのが現代の人なんです。
それと何が関係しているかというと、数年前に、テレビで高校生ぐらいの子が、「なぜ人を殺しちゃいけないんですか」という質問をしたんです。その返事ができなかった、というのが話題になりました。それがどういう文脈でとらえられたかというと、酒鬼薔薇とかいうのがいて、それを若い者が同じような考え方を代表して、人を殺して何が悪いと開き直ったというふうにとらえたんですけど、それは全く話が違うんだそうです。その場にいた加藤典洋さんという評論家から聞いたんです。「あれはそうじゃないんで、まじめな高校生がまじめな質問をしたんだよ。人間は、ブタを殺して食べたり、ウシを殺して食べたりする。ではその文脈で、どうして人を殺しちゃいけないんですか、というごくまじめな質問」だと。私は自分がいればこういうふうに答えたという答を言いますと、要するに、人が人を殺すというときに皆さん方は、人が人を殺すと素直に考える。私は確かにそういう時代に育ったんです。けんかをすると素手でやれと言われて、ある意味では奨励されたんだけど、そこにナイフを持った瞬間に大変な大目玉なんです。
何が言いたいのかというと、ナイフが人を殺すのは極めて簡単です。ところが言いたいのは、そのナイフと人間を比べてみろということなんです。ナイフの単純さと人間とを比べてください。人間に比べたら、ナイフにせよ、鉄砲の弾にせよ。ロケットというのは鉄砲弾の親玉みたいなものです。それを飛ばして喜んでいるというのは、逆に言えば、その一突きで死んでしまう人間というものの複雑さといったものを、ある意味ではどんどん理解しなくなっているということです。
そのことを、先ほど村上先生が「山川草木悉皆成仏」と言ったけれども、そのすべてのものに仏性があるという。つまり簡単に壊していけませんよという教えは、私はそれを言っているのだと思う。だけれども、ロケットを近代科学の粋だとして、極端な場合涙を流して喜ぶという精神構造が問題である思っている。そうではなくて、本当に我々が創り出すこともできず、根本的にはまだまだ理解のできないシステムというものをどうするか、という話が大切なんです。
私は虫取りが好きですから、夏休みにセミを捕ってうちに帰って、田舎からばあさんが出てきたりすると門前でばったり会って、「お盆にセミなんか捕って、おまえ、極楽いけないよ」と、玄関先でいきなり説教されたんですけど。ちょうどそういう感覚を我々はどんどん失っているのが、いわゆる環境問題として大げさに言われているのではないか、と私は考えています。 |
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