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| 岩槻 |
私は最近、いろいろなところでよく知らない人とお会いしたときに、「花を初めて奇麗と思って感動した人は、誰か知っていますか」という質問を投げかけるんです。実は、心を持つようになってきたというのは、科学的好奇心を発達させて、科学を発達させて技術に結びつけたという側面もあるんですけれども、同時に美しいものに感動する心というのも、これも人だけのものなんです。だから、ロケットを飛ばして喜ぶのと同じように、野の花を見て喜ぶというのも一番人間らしい行動のはずで、それは必ずしも、自然と相反するものなのかどうかというあたりも問題になると思うのです。
村上先生は先ほど、人がどう生態系に対応するか、ほかの種に対してどう対応するかというような問題提起をされましたが、そういうことを含めて少し。
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| 村上 |
例えば、トキという種を何とか絶滅から救いたいという努力をしていらっしゃる方々に対しては大変申し訳ないんだけれども。もしも自然という観点だけから言えば、トキが絶滅しようがそれは全く自然なことであって、今まで長い自然の歴史の中で絶滅した種というのは、ヤマほどあるわけですし、それを自然がとやかく言っているわけではない。しかし、その一方で、ああいう美しい種が地球から消えてゆくことに対して残念に思う心というのは、人間としてそれはそれでまた尊い話だと思う。そうすると私たちが何とか持続したいと思っている自然の姿とは何か。
残すべき自然とは
私は昭和28年ころに日本の一般の人々を相手にしたアンケートの結果が、いまだに忘れられないんです。「皆さん方の中の、自然のイメージとして最もその心に残っているものは何ですか」というのに対して、秋の、実りの黄金の稲穂がたれた水田に、風がそよいで、黄金の波がスーッと渡っていっているような状態というのを、自然のイメージとして最も称揚するという答がいちばん多かったですね。80%近くの人がそれを挙げた。いまだに多分そうだろうと思うんです。だけどこれほど人工的な風景は多分ない。とても自然のままほっておいたらそんなことは起こり得ないわけで、単品種農耕栽培ということから、まさにそれが起こってくるわけです。
私たちが自然といっているのは、極めてそのときそのときの人間の意識の世界が生み出している自然のイメージというものが重要な柱になっているのではないかと思います。それはある種のセンチメンタリズムと言い換えてもいい。そのセンチメントが先ほどから問題になっているように人間の特性であるとすれば、それは大切なものであって一概に否定はできない。人間もまた、自然の中に生まれた自然的存在であることは明らかですから。
その意味で、私は全く養老先生の分類に賛成なんです。つまり、自然と人間という区別はむしろ奇妙な区別であって、人間が自然の中の一部であることは明らかなわけです。そのときに人間が自然の中に人間的な価値を認めて、その価値を実現したり、あるいはその価値の崩壊に対して歯止めをかけるというようなことが、人間という自然物の役割であるとすれば、まさしく人間はやはり自然の一員として、そういうこともやってきている。
今欧米の人たちがしきりにいう自然破壊をしたのも人間ならば、それを何らかの価値をそこに与えて、ここまでは保存しようと考えるのも人間である。もしも人間がそのことを考えないのであれば、先ほどの世代間倫理だってほとんどナンセンスになってしまう。
そこに何らかの意味で、先ほど私が倫理という言葉を一つのキーワードにしたのは、倫理というのは、人間の道、人の道です。人間が自然の中でどう振る舞うかという意志、養老流に言えば意識者としてどう振る舞うかということが、恐らくその倫理というところに効いてくるんではないか。
その幅というのはものすごく広いと思う。我々はいろいろな意識者としての考え方を持ち得るというところに、恐らく問題の本質があるんだろうというふうに考えています。
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| 岩槻 |
私もある自然保護派の方から、文明というものが大体悪いんで、文明を無くしてしまって、みんな原始林に戻ったほうが本当の豊かさが得られるんではないかと言われたことがあります。私はフィールドワークをするために原生的な林に行かせていただくチャンスがしばしばある。植物学の仕事もそういう所へ行きますと能率が上がりますから、楽しいんですけど、せいぜい1週間ですね、そこで暮らせるのは。そういう所がいいからそこへ戻ろうというのは、文明の世界にいるから言えるんであって、そこへ行ったら決して言えなくなるんじゃないですか、というお答えをしています。
環境省がまだ環境庁と言っていたころに自然保護局が種の保全の仕事の一つでハナシノブ、阿蘇にあるハナシノブの保全にかなりのお金を出しました。ハナシノブは絶滅危惧になっている。なぜ絶滅危惧になっているかというと、あの辺は昔から、牧草を採るために草刈りを継続的にやっていて、それで森林が復元しないで草原になっていたからハナシノブのようなものがあるんです。ところが、草を刈らなくなったものですから、だんだん森林が回復してくる。そうするとハナシノブが生きていけなくなって絶滅の危機に瀕する。だから環境省は絶滅危惧種を守るために、農家の人に補助を出して草刈りを続けてもらうということをやっているわけです。そういうのは自然を守るということに対してどう意味を持つのか。先ほど小山先生がおっしゃった自然を守るということについてもう少しお話を展開していただきたい。 |
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| 小山 |
自然を見る視点の違い
私が言いたかったのは、自然を見る視点に違いがあるということです。遠くにいて自然を守れというアメリカやヨーロッパ、それに非常に近づいてきた日本。それに対して、生活者である先住民の見方。
この間、河合雅雄さんと話をしていたら、「わしは猿の目で見ている」と言うんです。猿は自然をどうやってみているかという見方があるんだなと変に納得しました。人間の歴史は180万年とすると、その間、たえず変わっていった自然に対して、どう考え適応してきたかという問題がありますね。
もう一つは、里山の問題。今、松茸が採れないとか、里山を壊したためにいろいろな問題が起こっています。地球研の佐藤洋一郎さんは「せっかく森が自由に生き始めたら、人間はまた干渉するのか。植物はそう思っているはずだ」と。僕らは、何か今ある生態系を一面的に捉えて、それがすべてと思っている。生態系はもっと複雑で微妙なものだから、いろいろな視点から考える必要があると思うのです。 |
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| 岩槻 |
ハナシノブについていえば、自然保護局は農家に補助を出して一生懸命に草刈りを奨励して自然が回復してくるのを妨げているという、そういうことになっているわけです。トキについていえば、トキという種が絶滅してもそのことによって、生物の多様性が大きい影響を受けるということはないんです。だけど、トキが滅ぶということは、トキを中心にしている生態系にひずみがくるというそのことが、まさに問題なのです。ハナシノブの場合も同じことで、阿蘇のそういう生態系を保全するのがいいのかどうかという問題提起も含めて、それを保全するためにはどうすることが必要かという試行になっているという部分があるわけです。
それから、今日の主題が統合的な視点というところでもありますので、そちらのほうへも話を移させていただきたいと思います。
人間の二面性
先ほど、養老先生は、最終的には細胞のようなシステムをどう見るかということだ、というふうに整理していただいたんですけれども、細胞よりもさらに私たちは個体としてのシステムとして生きているわけです。私は生物多様性そのものを生命系という言葉で表現させていただいていますけれども、最終的にはそういうシステムが取り上げられないといけないと思うんです。
自然とのかかわりでさっき村上先生が、人間も自然の一部なんだということを強調されました。先ほど心と体というものを、養老先生は一つの対立概念として、人と自然とを合わせてご説明になったんですけれども、もっと積極的に人間というのは自然の一部、動物ホモサピエンスとしてのヒトの部分と、それから意識を持って心を持って生きている人間的な側面と、二面性があるんだという言い方をしたほうが、もう少し分かりやすいように思うんです。そういう言い方をしますと、養老先生のさっきおっしゃったことと何か齟齬(そご)をきたすことになりますでしょうか。 |
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| 養老 |
必ずしもそうじゃないと思うんですが。最初に申し上げたように、とにかくこれは受け取り方の問題ですね。人間と自然といったときに、人間と自然の間に線があるように考えてしまうといけないと思っただけなんです。 |
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| 岩槻 |
さらに、先ほどの遺伝情報、情報ということをもう少し整理してみます。
日本学術会議で『日本の計画』という大きいリポートを作ったときに、遺伝情報とかそういうものに限定しないで、社会に循環する情報というようなことまで含めて、情報循環という言葉でどう整理できるかということを試みたことがあったんです。そういう情報の循環からいいますと、心の問題も、先ほど言いました二面性という言い方からしますと、人の動物的な側面というのが遺伝情報を親から子へと伝達し、その遺伝情報が発現することによって人の動物的機能は示すことはできるわけです。心というのは、生体外に情報を蓄積するようになってきて、その情報量がほかの動物とは決定的に違うぐらい増量してきて、さらにそれが言語や文字というような形で蓄積されるようになってきて、だんだん心というのが心らしくなってきた。そういう心らしさが、科学的好奇心だとか花や富士に感動する心に結びついてきたんだというふうな整理の仕方をしますと、これは、脳の立場からいいますと暴論になりますでしょうか。 |
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| 養老 |
特に、これもやはり表現の問題かなと今思っております。
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