今西先生の自然観
私は経済史。ヨーロッパの近代文明がなぜ起こったのか、そういう近代文明の仲間入りに日本が成功したのはどうしてか、ほかの地域はできないのはどうしてか、ということを考えています。
「ヨーロッパの、近代の文明が貧富の格差を生む。これは具合が悪い」と全面的に批判したマルクスという、19世紀の優れた人物がいます。この人が、1867年に『資本論』を書いたんですが、それを、チャールズ・ダーウィンに捧げようとしたわけです。それをダーウィンは断ったということであります。この2人、どこが似ているかというと、生物の世界で発見した弱肉強食・自然淘汰の世界をマルクスは人間の世界において発見した、ということです。
そういうものに親しんでいたんですが、一方で何かこうしっくり来ないところがありまして、ある時、今西錦司さんの『生物の世界』という本を読む機会があったわけです。それは、チャールズ・ダーウィンの自然観というか、生物観と異なるものを意識的に、自分の遺書として書き残すつもりでお書きになったものです。そこにある自然観は、ダーウィンの、あるいはマルクスの自然観とやはり違うわけですね。今西先生は、「もとは1つのものが分化して多様化していく。故にすべてのものが関連している」ということで、その関連を見抜く力を、すべての生きとし生きるものは備えていると。それを彼は“類推”というふうに言われたと思うんですね。彼は「生きものが分化して多様化していくということは、強いものが弱いものを、大きなものが小さいものを、蹂躙(じゅうりん)していくというようなものではなくて、全体の流れとしてはそれぞれがすみ分けている」というふうにおっしゃっています。
人類は「すみ分け世界」の破壊者?
1982年だと思いますけど、今西先生が80歳になられたときに、対談をする機会を、さる雑誌が与えてくださって、その時私は、今西先生は自然は“すみ分けの世界”というふうに言われたわけですが、そのすみ分けの世界を人類は破壊する存在だと思うということを申し上げました。1万年ほど前から、人類社会にいわゆる4大文明といわれるものが出現して、そのころだと恐らく人口推定で800万といわれていたのが、今60億いるわけですから、他の生物の生息地域に人類が入っていることは明白なる事実なので、「人類はすみ分けを破壊する存在である」「今西先生のすみ分け論は人類において破たんして、その意味では地球社会を論じるのに限界があると思う」というようなことを言いました。それに対して今西先生はまともにはお答えにならなかった。やがて1988年の春、今西先生が病床に伏されているところに、もうこれはともかく聞いておかないといかんと思いまして、病院に出かけまして、もう一度、人類はすみ分けを破壊する存在であるということをぶったわけです。そうすると先生は目を見開かれて「それは違います」「もう一回、よく考え直してきてください」というふうに言われました。人類が自然界のすみ分けを破壊する存在であるというテーゼに対して、うんと言われなかったわけです。
人間は自然の一部
今西先生の仕事をずっと見ていきますと、最後は進化論でも主体性の進化論、生きとし生けるものは全部主体性を持っておる、という考えですね。どういう主体性かというと、自分が何に属しているかが分かると。つまり、何者でもない多様な独自の存在というものを前提にされているわけです。その能力を“プロトアイデンティティ”というふうに言っているわけです。明らかにその中には、人間は主体性を持っている。しかし動植物も皆持っておるという確たる信念があって、それは今の自然観察の中に生かされている方法になっておりますが、その自然観からいたしますと、人間は自然の一部であって、そこから出られるものではないという、確たる信念がおありになったということです。
一方、人間を自然の一部とは見なくて、それと対立する見方というものの典型は、中東に生まれた旧約聖書の中にあります。創世記の中に、天地創造。空が生まれ、陸が生まれて、海が生まれて、そして鳥が生まれ、動物が生まれて、植物が生まれ、6日目に神の姿に似せて人をお作りになった。そして人に向かって、「生めよ増やせよ地に満ちよ。これはみんなおまえのためにある」というふうに言われているわけです。そういう見方が、後に自然科学というものになった。神の摂理を人間が栄光としてたたえるためという面が宗教的感情にも似たすごい勢いで、17世紀前後から、いわば宗教的情熱として、自然法則というものを明らかにするような、後に“科学革命”といわれるようなものが出てきたと思います。
ヨーロッパの科学革命
そういう自然の法則を、今度は人間が活用します。これを活用することは人間の特権であるということから、いわゆる、科学技術といいますか、科学というその理性的な営みと、今度はテクノロジーというものが結びつく。そしてたくさん物ができるということになったわけです。
大量生産、そして大量に消費すると、その恩恵にあずかれる人とあずかれない人がある。全員あずかれるようにしょうということで、社会主義が生まれました。だけど実質は、計画して何を作ってどれだけ皆さんに配って、失業がないようにしましようということであって、大量生産、大量消費、そして大量廃棄をしている、ということにおいては変わらないわけです。人はそれを“富”と言ったわけです。大量生産したその物を。最初にその問題に気付いたというか、トータルに分析したマルクスは、資本主義の支配的である社会の富は、その巨大な商品集積化からなっている。その商品は何かというと人間の労働の生産物だ。つまりその富とは人間が労働した生産物である。自然そのものではない。そのように考えました。
人間は「美」を創った
ところが、人間の作ったものは必ず朽ち果てます。ですから巨大な富というものは、実は、長い目で見ると必ずこの地上から消えて、土になる。
結局そこに還るということを、今西先生は言ったのかと思うわけです。超長期的に見るとそういうものである。近々1万年の人類の歴史は生物の歴史36億年というタイムスケールで見ると、ちりのごときものである。では、これは無駄なことをしているかというと、必ずしもそうとは思えない。我々が作った、人類が造ったものを文化遺産として、世界遺産として残している。それが人に感動を与えるというか、一言で言うと“美しい”ということですね。その“美しい”という共通の感覚で世界文化遺産のようなものがある。世界自然遺産も、そこに自然の驚異と畏敬と感動をもたらすものであるというふうに思うわけです。
そういうものを認識するために、人間の営みというものがある。人間が2足歩行で手が自由になったために道具を使えるようになって、それから脳があるので、これでいろんなものを考えることができる。それらを通して最終的に人間の使命というのは何かというと、我々を動かす一部として存在する「自然」というものが、実は、美を、それ自体自己目的にしている存在であるということを気付く、あるいは認識する能力を付与されていると。それは人間のみに与えられた尊厳ではないか、とさえ思うのであります。ですから、まだ十分に、今西先生の遺言のように残された宿題に、自分が答えられたと思えないんですけれども、単純に自然破壊をする存在だというふうなことを思っていた時点から、ようやく少し一歩でも半歩でも出たかなというのが、現在の「自然にとって人間は何か」にかかわる私の考えです。 |