KOSMOSフォーラム
 
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第2回KOSMOSフォーラム 2003
 
フォーラム議事録
 
岩槻 植物から考える
 私は植物学が専門だから「植物からの話をせよ」ということになっているのですが。私が数年前に書いた本の中で、「植物の代弁をする」と言ったことがありますので、今日は一度、植物からの目でその物語をさせていただきたいと思います。
 植物からという言い方をしますと、何だと思われるかもしれませんけれども、植物は、食べ物の基礎生産者であるというだけではなくて、私たちが生きていく上で、大切な共同者であるわけです。皆さん、一日も一瞬も休みなく、呼吸を続けられている。そういうことが続いているのも、植物が二酸化炭素を吸収して酸素を放出してくれているから、地球上に人間が60億になっても生きていけるというわけです。植物は人にとって非常に有り難いといいますか、それがないと生きていけない存在であるということを、まず植物から言わせていただきます。
 それで、今日のテーマが「自然にとって人間とは」ということですが、まず「自然にとっての自然」というのは何かというのを、少しスタートから考えさせていただきたい。
 「自然を色に例えると何色だと思われますか」という質問を日本でやりますと、ほとんどの方が緑とおっしゃるんですね。
 私は、中国のタクラマカン砂漠を10日あまりかけて旅行したことがあるのですが、タクラマカン砂漠というのは、緑はほとんどない所です。そういう所で暮らしている人に、「自然は何色ですか」ときくと、通訳を通しているのでどこまで正確に尋ねられたのかは分かりませんが、答えは一様に「自分たちの身の周りは褐色だけれども、自分たちにとって望ましい自然は緑である」という返事が返ってきたんですね。「自然」という言葉は、そのまま「緑」と置き換えられる。というのは、「緑豊かな場所、植物がたくさん生きている場所が自然である」というように普通は思われているみたいなんですね。ですから、「自然にとって人間とは」というと問いかけをすると、「植物にとって人間とは」という問いかけに、ひょっとしたらなるのかもしれない。そういうことを潜在意識として持っていただいて、次の話に進みたいと思います。

江戸時代は理想的なリサイクル社会
 ところで、「人と自然の共生」というテーマが、花博で使われてから、日本でも一般化するようになったのは、近々10年ほどの間です。メディアにもしばしば取り上げられて、このごろではお役所の文章にはこういう言葉が入らないと良くない文章である、と思われるぐらい普通に使われる言葉になっているのですけれども。そのようになってきたというのは、実は、そういう言葉が必要になってきた、ということなのです。
 今、東京では「江戸開府400年」というので、いろいろな行事が行われております。そこでしばしば言われるのが、「江戸というのは100万都市になったけれども、ちゃんとリサイクルが完成している都市であった」ということです。もう少し広げて言いますと、江戸時代までの日本の社会は、農村もきわめて理想的なリサイクル社会が作られていたのです。1回目のフォーラムで里山の話が少し出てきたのですが、里山がその典型的な例です。そのようなリサイクルシステムができていたのは、言い換えますと、人と自然の共生が、非常にいい状態で進行していたということなのです。ところが、江戸時代に人と自然の共生が必要だなんて言った人はいない。その通りになっているときには、そういう言葉は必要でなくて、そうでなくなってくると、言葉が必要になってくるということかと思うのです。

自然破壊はいつから
 そういう言い方で、「自然破壊を最初にやった人は誰か」ということを尋ねますと、この四字熟語は、まだどうやら、完成した言葉ではないらしくて、主な辞書には「自然破壊」という言葉は、見出し語に出てこないんですね。だから、自然を破壊するという行為があって、我々も、しばしば話はしているのですけれども、“自然破壊”という概念とか言葉というのは、日本の代表的な字引の見出し語としては出てこない、というようなもののようなのです。
 その自然破壊を「最初に日本列島で行った人は誰か」と考えてみますと、これは、うっそうと茂っていた日本列島の森林を伐開して、そこに単一作物を栽培するようになった人たち、新石器時代を作ったご先祖様たちということになるのですね。ところが、その人たちが自然破壊をやったとは言わないどころか、先ほども言いましたように、江戸時代までは人と自然の共生は非常にうまい具合に進んでいたのだ、というのが一般的な理解なのです。これは一体どういうことなのでしょうか。

ヒトとチンパンジーの違い
 近ごろ、遺伝的な解析が進むようになって、ヒトとチンパンジーの遺伝的な差は、1.3%弱だということです。1%程度の遺伝的な差といいますと、普通、生物の種差に置き換えられるぐらいです。ところがヒトとチンパンジーは、分類の階級で言いますと、「科」の階級、「種」よりも上の、「属」よりももう一つ上の、「科」の階級で区別をする生物として扱われています。ひょっとすると、ホモサピエンスという動物は、チンパンジーと比べて種差ぐらいの違いしかないのかもしれないのに、我々は、ヒトというのは万物の霊長だと――「ヒトとヒト以外の生物」というような言い方を、ついしてしまうのですね。それだと、そのヒトというのは一体何か。ヒトとチンパンジーが1.3%弱違うという言い方は、要するに、生物が進化をしてくる過程で遺伝子がどれだけ違ってきたかということです。
 遺伝子というのは、生物はすべて細胞を持っていて、細胞の中にDNAを持っていて、DNAに遺伝情報を乗せて、その遺伝情報が、環境と総合作用を営みながら発現してきて、いろいろな行動を示すようになる、いろいろな生きているということを演出するようになる、ということなんです。そのような、遺伝情報とは別に、動物でも植物でも、生体間でいろいろな情報交換をするのですが、生体間の情報交換はほとんど、すべて一過性で、いったん交換してしまいますと、それで終わりになる。ところが、ヒトはその生体外で交換した情報を、社会の中(生体外)にどんどん蓄積してきて、その量が膨大なものになっているのですね。蓄積の媒体は言語であり、それから文字でありというような形で、それが知的な集積となって、ヒトは知的な活動を始めるようになった。その意味で、ヒトはほかの動物と全く違う世界に踏み出してしまったといえます。

人工が自然に対峙
 そこで、遺伝子レベルで言うと1.3%弱の差に過ぎないのに、人(ヒト)がほかの動物とは違うという世界が発達してきて、科学だとか、芸術だとか、宗教だとかというようなものが成り立ってきた。それが成り立ったごく初期のころには、まだアンチ自然ではなかったのですが、それが発達して、富を蓄積するようになって、さらにその富をもっと拡大しようということになってきますと、科学技術とかというようなものが発達してきて、そして、ナチュラルに対してアーティフィシャルというような言葉が成立するようになってきた。というのが、どうやら、「人と自然の共生」というような言葉が必要になってきた背景ではないかと思います。
   
小山  それぞれの意見の開陳が終わりまして、思い当たったり、反論があったりするようなところを少し言ってください。
 
 
 
 
 
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