文明の発生
教科書で人類の起源は500万年前だというでしょ。ホモサピエンスというのは20万年前ですか。そして、5万年ほど前から、後の文明への流れが出て、1万年ほど前に文明ができた。
この文明に関しても、エジプトの文明とか、チグリス・ユーフラテスとか、インダスとか、黄河とか、最近では長江の文明とか、いうふうにいわれますが、それが今から5000−6000年前に起こった。そのあと、どういう知識が集積されたのかという、その知識の集積のされ方の場による違いみたいなものがあると思うんですよ。今から2500年程前にソクラテスなどギリシャの哲学者、あるいは自然哲学者の人たちが出て来る。こうしたものが後の自然科学への一番の基礎を作ったんだという考え方です。それから中東には予言者が現れて一神教の宗教を生む。インドには仏陀が出て、中国には孔子や孟子が出た。大体ほぼ同じで、それ以降、その大きな知的な枠組みの中で、人を考え自然を考えるというふうにしてきた。
仏教の思想
ですから、今から2500年−2600年前ぐらいが大きいかなと思うんです。我々はその中で、儒教やその仏教に近いところにいるので、その影響を長く受けたわけです。その仏教も最初は、国分寺、国分尼寺、東大寺のようなとても大きい仏様、つまり目に見える富ですよ。そのうち、『法華経』という教典を唱えるだけでよろしい。あるいは阿弥陀仏に“南無”と言うだけで救われますと。つまり仏様も仏像も寺院もなしに、そのことだけでよろしいと。そして、さらにいきますと、不立文字――座禅をして言語も断つというところで初めて、即身成仏ができるというところまで来るわけです。そのような思想の固有の展開というものが、日本においては行われます。
武士の魂
そして江戸時代になりますと、支配者階級である武士が土地を持っていない、あるいは土地の取得に熱心にならなくなる。そして何をしたかというと学問を積んだ。そのときに武士道と禅は非常に深い関係があるというふうに言われたりもします。これは、鈴木大拙の『禅と日本文化』というところに書かれている。武士道と禅あるいは生け花と禅、茶道と禅、日本にいかにそういうものが深くかかわっていたかということなんです。そういうものを身につけた人が隣の国に侵略しようとは誰もしていなかった。それぞれの土地の中で、あるほどの自然を徹底的に生かすという態度をとっているわけです。そのときに何か法則をそこに適用しているかというと、物に問うといいますか、徹底的に物を生かすというか、自分は物を生かすための道具になる。従って、武士の魂としての、大小の二本差し以外のものは持たないとなる。しかし持っているものがあるんです。それは何かというと、美学を持っている。美意識というのがあったと思うんです。こういう人たちの存在が、今日から見ると、あるいはヨーロッパとの対比で見ると、物を所有しないで物を生かしていくことにつながる。 日本人の自然観
ただ、そこにおける態度は、物に問うという態度であった。そして物を所有しないという態度であった。そこで持っているのは、必ずしも幾何学的法則とかというよりも、奇麗な絵を描いたり、例えば庭を造るのにも石が願うところに従って置く。計画的に左右対称で、どこにバラを植え、どこに芝生を成し、どこにその噴水を配するかということを図面に描いて幾何学的にやるのではなくて、ここに石がある、石が望むところに置いて差し上げる。そうすると全体として出てくるのは、自然の景観のリプロデュースになってくる。つまり自然そのものではないけど、自然の景観のリプロデュースなって、そこに人間の知恵が入っているということになります。これは非常に自然に近いんですね。疑似自然になっている。こういうものこそが、理想だというふうに我々は思っている。人間は自然の中に入ってそれを生かしている。自然の声を聞いてそれを形にする。それを人はどういうふうに名付けるかというと、景観式の庭園だと。ランドスケープガーデンだという。その対極の幾何学式アーティフィシャル(人工的)な庭園……これはイスラムの世界、キリスト教徒の世界に長く当然のごとく行き渡ったわけですが、これはやっぱり自然ではない、アーティフィシャルだと。そこから景観式がイギリスに入って来るんで、これはどうも日本の影響が、日本史の翻訳を通じてあったというふうに推測されます。景観式庭園を造ってそれが美であって、里山が美しくてそれが自然保護だというふうに、人間は、自然に学び、自然の声を聞き、自然のリプロデュースを人工的にすることによって、真にコミュニケーションができるんだということになるのではないだろうか、と思うんです。それは実は自然を知るということで、そして最終的に自然の価値というのは何かというと、これは先ほど言いましたが「美」だと。「美」を自己目的にしている。
カントの美意識
ヨーロッパの生んだ偉大な哲学者にカントという人がいます。この人は物理学者でした。ですから自然法則についてよく知っていた。しかしこの人は、これを法則として認識できるのはどうしてか、なぜこれが真理なのかということを徹底的に問われたわけです。それが『純粋理性批判』という本です。しかし人間はそれ以上の能力を持っている。つまり、その善悪というのがやはりあるわけですね、人間のルールには。これは真理と直接関係がない。そういう能力を持っていると『実践理性批判』をお書きになった。
最後に、我々はこれを美しいと思う。“美しさ”というものが出てくるんです。そういうものが、それを自己目的にしているというふうにカントが言った。最後はそれを“美と崇高”だという。最後はそこにいってるんです。自己目的だと、私はこれを認めていいし、これが自然界と人間界の共通する価値かなと。人間はそれを自覚できる。しかし、自然界も恐らく、動物同士が……形がいいですね。あれは自覚しないで芸術を作り上げているんだ、と勝手に想像しているんです。
例えば、植物は、大地に降り注いだ水が幾つかの分子を借りて、天空に向かってすぐに蒸発しないでしばらく宿るときに、その光を求めて作る芸術の形が植物だとか。そういうように見ていくと何となく全体が、見えてくるように思うんです。これは少し独断です。 |