KOSMOSフォーラム
 
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フォーラムINDEX(第9回〜第10回)
第9回内容
第10回内容
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第2回KOSMOSフォーラム 2003
 
フォーラム議事録
 
岩槻

文化は多様
 日本で江戸時代までに、今のリサイクルシステムのようなものが出来上がっていたというのは、文化がいかに多様であるかということの、一つのサンプルというふうな理解ができるのではないかと思うのです。その文化の起源というのを言語と結びつけるとすれば、言語が本当に単系であったかどうか。もし単系であったら、文化というのは単系でしょうし、多系で現れてきたものなら、それから作ってきたものがいろいろ形になってきたということだと思うんですが、そこの議論は抜きにして、今ある文化の多様性というのは、もっとあとのほうで多様化してきたというふうに考えざるを得ないと思うんです。
 その多様化の過程で、なぜ江戸時代まではリサイクルシステムを維持していたのに、明治以後それは維持できなかったのかというのを見てみますと、これは日本に固有に発達していた文明に、欧米の考え方が加わったためですね。ヨーローパ風の開発の仕方は、多少凹凸のある土地を全部農地化してしまって、面積は非常に大きいわけですね。そういう展開の仕方をしてきて、緑の自然が無くなったものですから慌てて、森林が大切だと言って、シュワルツバルトを育てたりというようなことになったみたいです。

自然と相談しながら
 それに対して日本列島は、地形が複雑で、せいぜい耕地面積が20%、それぐらいしか耕地として使えないわけです。ですから、それにプラスした20%ぐらいをいわゆる里山にして、20%プラス20%を活用し、それと奥山をうまい具合に案配させてきた。それは、先ほどおっしゃったように、科学的に自然をこう開発すべきだというやり方をしてきたわけではなくて、 “自然と相談しながら”、自然と打ち合わせをしながら、これが一番いい形だという開発の仕方をしてきたわけです。
 自然となじみながら開発してきた日本人のその開発の仕方は、ナチュラルに対するアーティフィシャルな、今我々が定義するような、そういう言葉で表現できるようなものではなかった。ヒトという一種の動物が自然の中で、知的な活動を始めながらではあるのですけれども、その自然の中に上手になじみながら共生して生きてきたという生き方だったんです。
 それは何かと考えてみますと、つい先日の省庁改変まで、日本に科学技術庁というお役所がありました。しかし、あのお役所は英訳をしますと、「Agency for Science and Technology」と、英語では‘科学と技術庁’なんです。科学技術庁と言ったのと、科学と技術庁と言ったのではニュアンスが随分違うのですけどね。

科学技術とは
 “科学技術”という四字熟語――四字熟語になりますと初めの二つが、後の二つを形容するようになります。科学技術というのはまさに技術の一型を示す語であって、科学と技術を表現するものではないと思うんです。
 技術というのはもともと、これは植物でもきちんと生きる技術を持っている。あらゆる動物も自分の技術、固有の技術を持って生きているわけです。そこへ科学的な思考が入ってきた。言語を発達させて、文化を発達させて、どんどん科学を発達させた結果、技術の上に科学という形容が付くものができてきたわけです。それまで“職人芸”というような言葉があって、技術はむしろ美的なものと結びついていたわけですが、それが科学技術になってきますと、科学的な効率の良さに重点が置かれるようになってきた。それで科学技術というもの、それ自体が勝手に発達してきたときに、日本でいわゆる「自然破壊」というような、現象が現れるようになってきた。そこで初めて、ナチュラルに対するアーティフィシャルという相互に相反する言葉が、自然はもっと保護されなければならないんだ、というような言い方が出てきたと思うんです。
 では、科学技術はすべて悪かといいますと、決してそうではなくて、例えば20世紀の初めと比べて20世紀の末に、人類は非常に豊かになってきて寿命も延びた。そういうように、科学技術の成果によって、いろいろな益がもたらされるようになってきた。ただそれをコントロールするところがどこか狂ってきてしまったのではないか。いずれにしても、科学技術というものの一人歩きが、ナチュラルに対する、アンチテーゼとしてのアーティフィシャルな面を非常に強めてしまったのではないかと思っています。

   
小山   つながらないと思っていたものが、大体根本的なところでつながってき始めたような気がします。
 1つは、江戸時代までの自然との共存の仕方が、そのあと変わってきた。そこへ科学技術が入ってきた。長谷川先生の言う、情報が蓄積して、指数級数的に追い込まれているといいますか、悪い方向へ動いてるんですかね、科学の進歩というのは。
   
長谷川 科学が攻撃されるのは
 悪い方向に動いているということでもないと思いますよ。私たちはついつい自分が得ている恩恵が当たり前と思って、悪くなったところだけを見ますから。科学が発達したから悪くなったところだけ言うけれど、今岩槻先生がおっしゃったように、科学が発達した結果、今では当たり前と思っている楽なこととか健康とか、全部あるわけですから。それは、これがほしかったわけですね。
 私が一番最初に言った「認識と認知と感情」というのは、科学は、無限に多分進むんだと思います。ただ、そういうことでもたらされたことが、長期に渡ってどんな効果があるかなどということは感覚できないし、長期に渡って悪くなるかもしれない、または、自分以外の人が悪くなるかもしれないということに痛みを感じることができないとか、その感情的な抑制をどうかけるか、ということが備わってないわけです。というのは、こんな事態は初めてなんだから。昔からこんなことが起こっていたら、人間もそれに対処する知恵でも、適応でもしていたかも知れない。けれど、ここまでこんなになったのはごく最近のことだから、あんまりそういうことに対して身近に痛みを感じたり、身近に自分の子供が病気になるかもしれないというような感じで心配をしたり、歯止めをかけたりすることがなかなかできない。でも、その一方で、何をしたら何ができるとかということも無限に進んでいくので、この乖離がとても不愉快というか、焦燥感というか。それが、科学を攻撃する1つの動機になっていると思います。
   
岩槻  先ほども言いましたように、ひずみが生じたのは、科学技術の使い方に過ちがあったから。で、過ちがあった部分は当然修復しないといけないわけで、それを修復するのも、やはり科学技術に大いに依存することになるのです。そういう意味では、科学というのは、人類を豊かにし、繁栄させるために、人類にとって非常に有用なものだと思いますし、有用にさせないといけないと思っております。
   
川勝

真理プラス善悪の価値が必要
 科学にとって、何が大事かというと、それが似非(えせ)であるか真理であるか。真理というのが、科学における一番大切なもので、科学者の良心というのは、真理の探究だということになると思うんです。
 それが、技術に適用されると、その使い方が問題になってくる。原爆のように人を殺傷したり、環境破壊するために使われるようになると、「これは具合が悪い」ということで、科学者の道徳が問われるようになったと思います。ですから、原子の中身の探求というもの自体は、純粋な真理の探究だったと思いますが、それが戦争に適用されるとなると、それを使ってはならないという、科学における重要な真理の価値とは別の、善悪の価値というものが入ってくると思います。
 だから、真理だけでは駄目で、善と悪ということが、人間の生き方としては入ってくる。ところが、「これは善だ」と言う人と「そういう使い方は良くない」という人がいて善悪というのは、残念ながら普遍的とは言えない。つまり相対的なものであるということだと思います。ですから、倫理規範というのは、相対的なものです。そうすると、善悪だけでも、やはり十分でないということになると思います。

もうひとつの価値は「美醜」
 そうすると、もう一つの価値がいる。どんなに善、あるいは正義の名において、科学的真理に基づき技術的に適用しても、物を破壊したりすると、全然、真理も技術も分からない人でも、「あんたのやっていることは醜い、汚い」というようなことがあると思うのです。
 ですから最後は、先ほど感性の話が出てきましたけれども、自分にとって、快、不快は、理屈を超えているところがあると思うのです。そこに美醜というもう一つの価値が出てくる。これは言葉を超えている。真理も、善悪も、それらを説明する言語も超えた、我々が持っている判断力、それが美醜だと思います。そういう感覚は、必ずしも、自覚していなくても、動植物も持っていると信じたいですね。
 例えば、春になって小鳥たちが歌いますね。恋をしているときの声の、あの美しさは本当に音楽です。ですから、そういうところに、美しさというものが、やはりあると思わざるを得ないわけです。
 だから、真理であるか、善であるかというような価値だけでは不十分で、今のように、経済は量でいく、文化は質だ、政治は力だと。では環境は何か。環境の価値は、私は、景観がきれいかどうかということが、非常に重要な基準になると思いますね。では、何がきれいかというように問うたら、これは主観的なものですから、意見が分かれるでしょう。つまり、定義するのに非常に難しい、言葉を超えている面がありますから。しかしながら、誰もがそういう価値があるということは知っているんですね。これは普遍的な価値なんですね。
 そういう意味で、先ほどの道徳の問題は、真偽という二項対立、善悪という二項対立の問題として出されていますが、もう一つその上に、それを包摂するものとして美醜という感覚がある。これは、非常に未熟なものから非常に成熟したものにまで、通観してあるという価値だと思います。

   
長谷川

真理の追究と社会への適用は別物
 原爆の話も、科学が真理と真実を追究するということだけでは駄目だから反省したのではないと思う。というのは、科学は真実を追究することは務めであって、科学者は真実に対して謙虚でなければならないというのは、仕事の基準ですね。しかしそのほかに、それが武器に使われるというのは、誰かが誰かを殺したいという欲望があるからです。その時に、真実を追究することによって得た、別の世界で得た成果を借りてきて、それを使うということは、科学の真実を追究するということとは別の話です。科学者はここの関係を、あまり自分の仕事の一部として考えたことがなく、真実の追究だけをやっていれば、自分の責務を果たせたと思ってきたから、そのことに関して疑問が生じたのだと思うのですね。私は、原子物理学者であれ、生態学者であれ、人類学者であれ、自分がやる務めの根幹は真実を追究することで、真実に対して謙虚であることにあると思いますから、それがどのように社会に応用されるかということは、やはり別物だと思う。

科学者の責任をどう考えるか
 原子物理学者たちが、原爆に対して、どのように責任を取れるのか取れないのか。現場の科学者が、そういう応用をされたときの、いろいろな相互善悪に対して、どれだけ本当に関わるべきか、責任を取るべきかというのは、私も、よくまだ分かりません。どれだけ自分のやったことの波及効果のところまで視野に入れなければないのか。人間にとって何がいいことであり、何がよくないことかということをどのようにして判断し、どのように調整していくかということが、とても大事な、これがとても難しいことで、そこに科学の成果が割と無批判に乗っかって流用されてきているということに、そしてそれは、とても強いものを生み出してしまうということに、人々は非常な焦燥感を持つのだと思います。

自然界が人間と同じように美を語れるのか
 それから、美という話は、先ほど、「人間と自然を対立させて、人間というのを別物として扱うのは、西洋の自然観で」というようなことをおっしゃっていた割には、その美のとらえ方は、人間の美という感覚を、すべての動物・植物に押し付けているような気がしました。彼らがどのように美というのを認識しているかというのは、それは人間には分からない。ウグイスのさえずりが、ウグイスの雌にとってどのように美的に感覚されているかなんて分かりませんよ。だけど、ウグイスのさえずりとか、バラの花などを美しいと人間は思うわけですね。何でその自然界を美しいと思うかというのは、とても面白いことだけれど、自然界が、人間と同じように美を語れるという必要はないのではないかなと思います。

 
 
 
 
 
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