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| 岩槻 |
科学のPRが科学者の責任
その論争、非常に面白いので続けていただけたらいいと思うのですが、その前に、全般の科学者のところで、少しだけコメントしておきたいことがあります。特に自然科学者の場合には、科学のための科学を追究するというのが、引き受けている仕事なわけです。ただ、そのことが、例えば、原子力などで典型的に表れてきたように、非常に大きい社会的なインパクトを与えるようになってきた。だがら、科学者もそれに対してコミットしなければいけない。つまり、科学者の倫理ということが話題になっている。科学者も社会に対してそういう責任があるということです。そのコミットの仕方というのが、例えば、原子物理学者が原子爆弾に対してどうのこうのということだけではなくて、特に日本の社会では、この環境問題で典型的に表れていることだと思うのです。一番問題なのは、一般社会において現に得られている科学的な知識、基礎的な知識の理解が非常に遅れている、ということで、それに対して、科学者はこれまでコミットしてこなかったという責任、これは科学者の側にも責任があると思うのです。私たち理学系統の人間の中では、何か社会教育みたいなものにコミットすると、それは立派な研究者のやることではないというような雰囲気がかつてはあったのですが、やはり第一級の優れた科学者が、いかに科学が面白くて、何が分かっていて、何が分かっていないかということを、世の中にもっともっといい意味でピーアールをするというのは科学者の責任であって、それは、今言われているような科学者の倫理という狭い意味ではなくて、人間として生きている上での最低限の責任だというように理解している。いかに科学的な思考力を広げていくかというような意味での、「サイエンス・フォー・ソサエティー」の働きが科学者には非常に重要だと思っています。 |
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| 小山 |
川勝先生は「美である」という主張をなさって面白いのだけれど、「みんなに美しいのは分かっているはずだ」と言ったとき、私がフッと考えたのは、長谷川先生が「クジャクはなぜ美しいか」と。クジャクの美は、クジャクはどう考えているんですか。 |
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| 長谷川 |
クジャクの雌は雄の目玉模様を見ていない
今調査して分かったことは、あの目玉模様は関係がないんですよ、雌の選び方に。イギリスで最初に研究者が明らかにしたのは、目玉模様の数が多ければ多いほど雌はよく選ぶということだったのですが、この10年の研究結果で、実はそういうことは成り立っていないと思います。
本当に雄は全エネルギーをかけて、あれを雌に向けているけれど、雌が着目しているのは、あの目玉ではないみたいです。
でも、さえずり声とかだと、さえずりの幅が広いというか、いろいろなさえずりのレパートリーを広く歌うほどもてるというのは、その通りですね。でもそれは、雌の感覚器官のあり方で、どういう感覚系が入ってくると、どっちに動きたくなるというのが基本にあるわけですから、それを見ている自分というものとか、それが世界の行動の中の何であるかなどというものを、鳥たちがクルミほどもない脳の中で分かっているかどうかは、それは誰にも分かりません。 |
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| 川勝 |
サンテグジュペリの星の王子様
生きとし生けるものが心理それ自体を目的としている、と言うのは、非常に難しいですよね。生きとし生けるものが最高の善を実現するために生きている、というふうに言うのも、これまた非常に難しい。では、生きとし生けるものは、無意味に生きているかというと、これは人間の言葉で説明する以外にないわけですね。だから擬人主義にならざるを得ない。
この擬人主義というのは、例えば、サンテグジュペリの星の王子様――あの人は、軍人であり、文人であった。自分のお星様にお花を栽培して、手間暇かけて。ところが地球にきて、もっと美しい花があるのだと気付いて、浮かれるわけですが、やがて、自分にとって本当に大切な花は、自分が世話をし、自分が愛情をかけたその花だということに、彼は気付くわけです。
つまり、他人ではないのですね。もうほとんど自分の分身というと少し言い過ぎですけど、二人称なわけです。これは養老先生のお話の中に出てきますけれども、そこに死体がある。これは、ボディと英語では言います。日本では仏様と言ったりいたします。そういうときに、しかし、どこからか運ばれてきた解剖のための死体と、自分の愛する父、あるいは恋人、あるいは妻、子供、兄、妹、こういう死体は、これは第三者的な死体ではない。これはもう、そんな客観的な形で突き放してみることができない。つまりもう、自分の一部なわけですね。そういう、三人称の死体と、二人称の死体というものがあるのだと言われています。
周りにあるものは自分と無縁ではない
もう一つ、自分自身の死体は、自分自身で見ることができません。一人称の死というのもあるのだと言われておりますけれども、その周りのものを我が事のように見るという見方、これがおそらく輪廻(りんね)転生とか、あるいは何かの生まれ変わりであるとか、というようなことが信じられる一つの生命観というか、自然観だと思うんです。そういう自然観を持っているところにおける真理探究の仕方というのは、それとは異なる宗教観を持っているところにおける真理探究の仕方とは違うと思います。
その真理といっても、今のところ分かっているのは、例えば、宇宙は150億年前のビックバンで、それ以降、多様化して同じ法則がどこにでも成り立つというものではないんだと。ともかく、同じ事が一度も起こっていない。歴史的な世界である。というふうになりますと、真理探究といっても……どうでしょうか。だから、そういう意味におきまして、周りにあるものが、自分と無縁のものではないと思っている、そういう見方に立ったときに、初めて擬人主義そのものである霊長類学というものができたのだと思っております。
今長谷川先生が説明されたクジャクのことについても、これは実験をして、そこから帰納されたものですけれども、トータルとしてクジャクはクジャクを見ているわけで、それは最終的にクジャクにならないから分からないのですけれど、どのようにして分かるかというときには、我々は擬人的に見ざるを得ない。これは我々の悲しい性(さが)ではないかと思うんです。 |
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| 小山 |
今日の目的というのは、自然のほうから少し見てみようということで、各自、視点の提示をしたわけですけれども、世界の景観を見ていくと、植物景観では、日本の景観の特徴はよそと比べてどんな感じですか。 |
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| 岩槻 |
一言で言うというのは難しいですね。先ほど少し言いましたように、地形が非常に複雑であって、温暖多雨であって。ですから、植物相としては、地域の広さの割には非常に豊かである。生物多様性に富んでいる。一言で言えば、そういうことになりますか。 |
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| 小山 |
長谷川先生は、アフリカに行ったり北極のほうへ行ったり、いろいろ見ていますけど、どうですか。 |
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| 長谷川 |
日本の自然は、夏に帰ってくると、本当に水の多い所で、水が多いから緑がある。夏に外から帰ってくると、「ああ、なんて日本は熱帯だ」と思いますね。で、冬に帰ってくると、木が全部、葉が無くなって、それで雪が降ったりするから、「ああ、日本は寒帯だ」と思う。日本というのは、そういう二つの極端を時系列的に繰り返しているというところが素晴らしいと思う。 |
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| 小山 |
手の入れ方はどうですか。 |
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| 長谷川 |
手の入れ方はいろいろあるけれど、いつも、悔しい思いをするのは、日本全国津々浦々どこへ行っても同じような建物の、同じような駅前の、同じような空港の、同じようなモスバーガーとかになってしまったというのがとても悲しい。だから、元来、とても日本的な、そういう感性はあったんでしょ。それが、かくも簡単に、あのように、日本全国、みんな景観が同じに変わったことの理由が知りたい。 |
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| 小山 |
川勝先生は、ロンドンから帰ってきて。 |
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| 川勝 |
屋久島の自然は地球のモデル
ロンドンのカントリーサイドはきれいですよ。だけど、単調です。ここに屋久島の蒸留水を置いていただいていますが、屋久島は、10年前に世界自然遺産になったのですけれど、亜熱帯の北限です。1930メートルの宮之浦岳の、上のほうは、高山植物が。2月ぐらいには雪が降ってくるのです。しかし、下は亜熱帯ですから珊瑚礁があります。照葉樹林もある。そしてその上に、有名な屋久杉もある。これが世界自然遺産になったのは、地球の自然の多様性というものが、この小さな島の中に垂直分布として全部ある。全部といいますか、非常に集中的に表れているというので、非常に住みにくい所です。なぜかというと、上の方では1年間に1万ミリぐらい雨が降ります。中腹でも4000ミリぐらい降ります。ですから、非常に住みにくいところですけれど、結果的に人間の手が入らなかったので、これを世界自然遺産にしていただいた。
亜熱帯から亜寒帯まであるということは、日本そのものではないかと思うんです。日本は非常に複雑な地形を持っていると言われましたけれども、水と緑の豊かな、そういう意味では、緑の地球というものを小さな島に体現している。あたかも、屋久島が日本の一つの小さなモデルであるように、日本は地球的自然のモデルと見立てることができる。
日本の森はガーデンフォレスト
ご承知のように、戦後にたくさんのスギやヒノキを植えた。ところが政府が外材を輸入すると決めたものですから、それが放っておかれているわけです。これはけしからんことです。縄文文化の三内丸山でもクリやナラを5500年前〜4000年前は植えていた。つまり、人間が栽培をするということを長くやっていた。日本の森は、そういうガーデンとして人間が手を入れたガーデンフォレストです。あるいは、園芸としての農業というふうに、日本の場合は、とても手をかけるので、アグリカルチャーというよりも、園芸に近いというように言われるわけです。そういうことを延々と1万年近くやってきている。
ですから、私は、日本としての使命というのはあると思うんですね。その使命は歴史的に見ると、なるほどヨーロッパをマネして相当自然破壊もしてきました。しかしながら、違う歴史を持っているし、違う歴史観もある。それを踏まえて、我々の特有の自然観、我々の特有の歴史というものから地球社会に対して何ができるかという発信は、やはり、しなくてはならないと思うんです。 |
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| 小山 |
どうもありがとうございました。
きょうは、自然のほうから共生を考えてみようと。面白い論議は出たんですが私たちがいくら論議しても、そうそう解答は見つからない。だけど、こういうことを考えながら、今から、日本の中での、自然との共生というのを考えていかなければならないし、それが、ひいては地球的な問題でもあるわけです。 |