
人間と人間との関係を考える
ここで今日、医学の関係者が悩んでおられるのは、例えば、近代医学でいうと、診察に来られた方が癌の末期症状で、余命1カ月だと分かります。それは告知しようと思ったらできるし、このごろ本人に告知する医者も多いらしいです。ところが、癌になった人が「私はこの1カ月をどんなふうに生きたらいいんですか」とか、「なぜ、私がこんな癌になるんですか」と言われたら、「それは医学とは関係ございません」と言っても話になりません。その人はそれが知りたいのですから。実際、私の知っている人で、そう言った人がいます。
自分ということが入ってきた途端に、話がガラッと変わる。このことを、ノンフィクション作家の柳田邦男さんがよく言っておられます。人間というものは、人間はどうなったら死ぬかとか、人間の死とは何かということは研究できますが、私の大好きな人がどうしてここで死んだんだろうとか、私が死ぬとは一体どういうことだろうなどと、自分のことが入ってくると客観的研究はできない、と。
私のところに相談に来られた方で、恋人が目の前で交通事故で亡くなったという人がおられます。この人はものすごく気分が沈んで、何もする気がしなくて、仕事どころか家に閉じこもってばかりおられた方で、とうとう相談に来て、「どうして、恋人は私の前で死んだんでしょう」と言われます。そこで私が、「あれは出血多量です」などと言ったらどうなりますか。出血多量というのは自然科学の答えです。間違ってはいません。でも、その人の聞きたいのは、「どうして、よりによって私の目の前で」ということが言いたいのでしょう。「それを私はどう受けとめたらいいんですか」と問われているときに、「出血多量ですから、それは仕方ないですね」などとはならない。先程も言いましたように、自分というものがそこに関係しだすと、どうも自然科学では解決できない、難しい問題に直面します。我々が生きているということは、すなわち、一体私はどう生きるのか、私はどうなるのか、私はなぜ死ぬのか、というようなことをどうしても考えねばなりません。そのときに「それは宗教です」と簡単に言ってしまわずに、もう少しそこを研究できないでしょうか。
そこで、私が考えましたのは、近代の科学と違って、人間と人間、あるいは人間と花など、こういうことに関係があるところで、研究をやってみたらどうだろうかということです。人間と人間が関係する中で、人間の研究をしなければうまくいかないのではないかと、私の修得の中で思いだしたのです。
子供と話をしてみて
簡単な例を言いますと、非行をやって、シンナーを吸っている子がいるとします。そういう子を呼んできて、「シンナー吸ったら駄目じゃないか」、「これからはやめるんだぞ」と言って、その子の返事がよくても、しばらくしたらまた吸っています。ところが、私がそういう子に会うときに、どうしているかというと、「こんにちは」と言うだけです。別にシンナーのことも何も言わないし、「どうですか」と言うだけで、その子は何を言っても構わないという姿勢でいますと、「いやあ、こんなところに来ても仕方ないけどな」と言うから、「うーん」と感心して聞いていたら、「大体、うちのおやじがここに来ておまえに説教されたらいいって言ったんだ。僕が来たかったわけじゃない。」と言う。「うーん、お宅のおやじはな……」と言っていたら、おやじはどんな悪いヤツかなど、だんだんと色々話してくるのです。
私に話しているうちに興奮して、「うちのおやじみたいなん、死んだほうがマシや」と、どなった学生がいるんです。それでも、私がうんと聞いていたら、しばらく沈黙したあとで、「学費は、…おやじが払っているんですが……」などと言いだす。面白いですね。「あいつは死んだほうがマシ」というのと、「あいつがいなくては学費はない」というのと、この両方を考えて結論を出さなければいけないのですが、なかなか人間というのは、両方考えずに「あんなクソおやじ」と考えたり、格好だけで考えたりしているんです。ところが、ゆっくり話を聞いてくれる人がいると、あれも考えられる、これも考えられる。それで考えているうちに、その人が自分で答えを見つけていくわけです。
いろいろな人の相談をしているといっても、私が答えを言うことは非常に少ないです。来られた人はみんな自分で考え出す。しかし考え出す前に、おやじの悪口を言ってみたり、おやじのいいことを言ってみたりされる。そして、私のところから帰るときに、「先生にこんなことを言うとは思っていませんでした」と言う人が非常にたくさんおられます。
先程の方などは、「恋人が死んで、もう自分も死にたい」と、その気持ちだけで来ておられるわけです。ところが、私が「そうなんですか」と聞いているうちに、その人の人生の全体が見えてくる。人生の全体が見えてくると、その人は自分で「じゃあ、こうします」と見つけられるわけです。
そのときに、下手な人がやっていると、話を全部聞けないのです。簡単そうに見えますけれども、なかなか人の話は簡単には聞けないですよ。いいことだけ聞いて、嫌なことを言われたときには本気で聞いていない、という人が多いのです。いいことであれ、悪いことであれ、何であれ、ずっと真剣に聞くというのは、よほど自分を修練していかないと、なかなかそういう人間にはなれません。私はひたすらそれを修練してきたと思っているのです。「お父さん、どうですか」「お母さん、どうですか」とか、こちらが言うと、向こうが「別に」とか、「普通」とかばかり言ってしまう。私がじっと待って聞いていると、いろいろな話も出て、変わっていくということは、人間関係によって現象が変わっていくのだ、そして、その人間関係こそが大事ではないだろうか、と思いはじめたのです。
|